プロフィール

祖母の死と両親の離婚・環境の変化で寂しくて不安だった子供時代

1976年愛知県に生まれるも、父親の転勤で生後3か月ほどですぐに都内へ引っ越しました。
祖母、父、母、姉二人の6人家族で6畳二間の都営アパートに住んでいましたが、
6歳で祖母が亡くなり、7歳で両親が離婚しました。
それからは母・姉2人・猫1匹と私の4人で暮らしていました。
優しかった祖母の死に直面し、人は死ぬんだということを目の当たりにして悲しく寂しい気持ちでした。
そして酒乱の父親の度重なる暴挙におびえた生活を送っていて、家の中は安心できる空間ではなく、いつも漠然とした不安感で生活していました。

母はいつでも逃げ出せるようにいつも荷物をまとめていたし、父親がお酒を飲み始めて暴れだすと「家を出よう!」と言って私達姉妹の手を引いて急いで家を飛び出し、外で時間をつぶしてから様子を見に帰るというのを繰り返していました。
ひどい時は家中の物が散乱していて家具が倒れていたりとすごい惨状でした。

両親が離婚してから父親がいないことを同級生の男子にからかわれたのも傷つきました。
父親がいない母子家庭で暮らしていく生活に幼いながらも不安で孤独感も感じていました。

小学校卒業の時に住んでいたアパートを取り壊すために退去することとなり、
中学入学と同時に品川区から港区の都営アパートに引っ越しました。
仲良しの友達との別れがつらくて孤独感と不安でいっぱいでした。

住み始めたアパートの周りはビルや飲食店だらけのオフィス街でした。
近所に子供が遊べる公園などはなく、急な環境の変化に最初は嫌で仕方なかったです。

それでも徐々にクラスの中で新しい友達もできて学校に慣れていきました。
周りは塾に通っている人が多く、親が社長でビルを所有している、お店を経営しているなど家庭環境の違いを肌で感じていたので、うちは母子家庭で貧乏なんだ、生活するだけで精一杯で塾に通うお金などないと分かっていたので、部活(軟式テニス部)がない時は学校から帰宅してからも復習したり予習したりと自分で勉強をずっとしていました。裕福そうな家庭環境が羨ましくもあったのと、私は周りの友達とは違うんだとずっと自己否定感や不安を感じてきました。

そして学費がかかる希望していた私立高校の受験をあきらめて、確実に入れる都立高校を受験しました。

高校生活は中学校の時とはまた環境がガラリと変わりました。
勉強の内容は難しくなるのに先生たちは淡々と授業を進めていき、生徒が寝てようがおしゃべりしてようがお構いなしという感じでした。
先生の言うことを生徒たちも聞かなくなったから、先生達もだんだんそうなってしまったんだろうと思います。

小中学校では全般的に勉強や運動することが好きだったのに、高校に入った途端にどの授業もつまらなく感じてしまってやる気が下がっていきました。
病気以外で学校を休むことはしなかったけど、早退はよくするようになって友達の家に集まってゲームして遊んだり、勉強することよりも遊びやバイトにすべてのエネルギーを費やしていました。

先生とも友達感覚で話したり、校則も厳しくなかったのでほぼ私服、バイトもOKだったし、たばこも隠れて吸い出したり、髪の毛を染めたり、ギャルブーム到来ルーズソックスが流行りだした頃でした。
安室ちゃんや小室ファミリーが大人気で私もカラオケでよく歌っていました。
たばこは頼むから学校以外で吸ってくれと見逃してくれる先生がいたり(笑)
勉強とは無縁の高校生時代を過ごしていきました。

高校3年の進路相談のときに現実を突きつけられて、自分が将来何をしたいのか?やりたいことが見つからず、自分に何が向いてるのかもよく分からずで漠然と将来がずっと不安でいました。
先生や母親の勧めもあって特に興味もなかった事務職に就職する方を選択しました。

就職するもいじめられ、環境になじめずすぐに退職する

安定の事務職に就職したはずでしたが、同期達とは仲良かったものの、私だけ別の部署に配属されてしまい新人は私だけでした。意地悪な先輩が居て立場の弱い私が標的にされました。あいさつしても返事をしてくれない、あからさまに私だけお土産をくれなかったり、分からないことを質問しても無視されたりと、その人を見るだけですごく嫌な気持ちになっていきました。仕事をするモチベーションも下がり、話せる同僚もいなかったのでお昼休みも一人で孤独でした。同じ作業の繰り返しで話せる人もいないから仕事もつまらない。なんの為に仕事をしているのか分からなくなり6ヵ月で退職しました。

気楽にバイトをしていた方が楽しかったなと思っていたので、カラオケボックス、コンビニ、カフェ、居酒屋などの飲食店、結婚式場などでフリーターとして仕事をいくつも掛け持ちしながら働いていきました。
お金がたまればハワイ旅行に行くのが楽しみでしたが、ちゃんと正社員として就職しないといけないという思い込みがあって、漠然とした不安が常に私の中にありました。

自分は何がしたいのか?将来何をしたらいいのか?ずっと答えが出なくて自問自答を繰り返していました。
海が好きでハワイアンな洋服や可愛い雑貨が好き、歌ったり踊ったり音楽も大好きだけど、それが仕事になるとは繋がらなかったので模索しながらも悩んでいました。

その時に彼氏のお母さんに歯科助手として歯医者さんで働くのが安定していていいのでは?とおすすめしてもらったのがきっかけで歯科助手専門学校に通うことを決意します。
歯科衛生士の学校に行くか迷ったけど、国家資格なんて私には無理そうだと早々に諦めて、まずは歯科助手の資格を取ってからだと思い、1年間歯科助手専門学校に通いました。
無事に歯科助手の資格を取ってから3年間同じ歯医者さんで正社員として働きました。

安定していたにも関わらず、本当にこのまま歯科助手として歯医者さんで一生働き続けたいのか?
またぐるぐると将来が不安でたまらなくなっていきました。
歯科助手なのに歯科衛生士と変わらない仕事内容や、歯科衛生士よりも働いてる自覚があるのに正当な評価をしてもらえない、資格がないことでお給料が低いのが不満なこともあって、
やはり国家資格を取りに行こう!!と思い立ち、27歳の時に夜間部のある歯科衛生士専門学校に通う事を決意します。

昼は歯科助手をやりながら、夜間部は学生として専門学校に3年間通いました。
30歳で念願の国家資格を取得してから学校を無事卒業しました。
高校時代からの縁で付き合っていた彼氏とも結婚します。

そして同時に研修先だった大学歯科病院で求人募集があり、専門学校の先生の強い勧めもあって、
挑戦してみようと思い立ち、筆記や面接試験を突破し就職をしました。
あとから聞きましたが、夜間部の専門学校卒業で大学病院への就職は珍しく私が第一号だったそうです。

喜び勇んで準備して大学病院の歯科衛生士として勤務をしていきましが、業務内容は想像以上にハードでとても忙しく業務に追われる毎日でした。
馬車馬のように働いて、へとへとになりながらやっと業務が終わったあとでも、勉強会参加が必須だったので、みんなも同じように頑張っているので私だけ休むわけにもいかなくて、無理をしながら仕事をしていました。結婚生活は楽しく過ごしていましたが、大学病院で仕事をするために毎日生きているようなそんな感覚でした。

普通の歯医者さんでは手に負えない患者さんや心が病んでる患者さんなど、大学病院にはそのような方達が多数来院するので、病院の待合室は常に人であふれかえっていました。
患者さんからの理不尽な対応に追われたり、厳しい歯科医師や先輩歯科衛生士も多く、スムーズにいかないことにイライラされながら、怒られながら凹む毎日を過ごしていて本当にストレスの多い環境でした。

周りではうつ状態で休職する人や辞めていく人もたくさんいましたし、中には自殺未遂した人もいたり、私もギリギリの精神状態でなんとか耐えながら働いていました。
そういう人達に一貫して私が感じていたのは、とても繊細で優しい方ばかり、私が好きな人達ばかりでした。

上司の言う事にはへらへらと付いていくのに、困ってる後輩達には厳しく接しているのを見たり自分の出世のことしか考えていない人もたくさん見てきたので、自分もここに居続けたらそんな人間になってしまうのかと嫌気がさしていました。

あのまま疲弊しながら勤務し続けていたら間違いなく人生を後悔していたと思います。

就職してからすぐに辞めたいと思っていたけど、国家資格をとって大学病院に就職して働くことはとても大変だったので簡単にはやめられないと思っていましたし、夫からも励まして支えてもらっていたことや、優しい同期達に恵まれてなんとか踏みとどまっていました。

思っていることに蓋をして、上司の言う事を聞いて、周りに合わせて、怒りたくもないのに学生達や後輩達に厳しく接したり、実践する場もないのに勉強会にも強制参加だったり、眠くなるような会議に出たり、やりたくもない仕事のために生きる人生でいいのか?
自分の生き方にも疑問でずっとずっと漠然と将来が不安なままでした。

このままこの職場にいたいと思うのか?またもやずっと自問自答してきました。

みんなも頑張っているし頑張らないとダメなんだ!と謎の気合を自分に入れたりしながら、
やめる決意がなかなかできないでいました。
お金を稼ぐためにもなんとか踏みとどまっていました。

自分という個性を押さえつけて、生きずらさを感じていながらも周りに合わせることが当たり前になっていって、次第にそんなブラックな環境でも慣れていって仕事が嫌だと思う感覚も麻痺していきました。

そして31歳の時に子宮頸がん検診で引っかかってしまい、高度異形成上皮と診断されて円錐切除手術をしました。入院している時にも自分と向き合ってきました。

仕事と不妊治療、薬づけの日々でうつ状態だった30代

30歳で結婚と就職を同時にスタートしてからは仕事を覚えることや大学病院での人間関係で疲れていたので、子供が欲しいという気持ちにはなかなかなれず、そのうち妊活すればすぐに妊娠できるだろうぐらい簡単に考えていました。

でも妊活を意識しだしてから2年間なかなか妊娠することがなかったので、だんだん自分の体に何か問題があるんじゃないかと不安にかられて夫とも相談して不妊治療病院に行く決意をしました。

夫婦ともに検査をしても特に異常はなかったので、まずはタイミング療法をしなからということで体の状態を見ながら治療をはじめていきました。通院して3ヵ月くらいしてからすぐに妊娠することができましたが、残念ながら7週目で自然流産することになってしまいました。

飛び上がって喜んだのも束の間でとても悲しかったですが、妊娠できる体なんだと自分の体にひとまずは安心しました。子宮を休ませるためにも3か月は休養しながら妊活はお休みしました。

妊活を再開してからしばらくはタイミングを見ながらでしたが、なかなか妊娠できなかったので、本格的に治療を始めることになり、ホルモン注射や飲み薬を定期的に飲むようになり薬漬けの生活が始まりました。

勇気を出して職場の上司に不妊治療していることを相談してみるものの、当時は急な休みをとることの理解が得られなくてつらかったです。
毎月の排卵日に命をかけているのに休むことができなくて、仕事のためにタイミングを逃すこともあったり、思うように治療が進まないことにもストレスが重なりました

治療費を稼ぐためにも4年間は歯を食いしばりながら大学病院で働いていましたが、ある時上司に言われた心無い軽い一言に、ものすごいショックを受けました。
張り詰めていた糸がプツンと切れたかのように頑張る気力を失いました。
もともと信頼関係などなかったその上司のお陰で、
思い切って不妊治療を優先するために退職を決意できた瞬間でもありました。

大学病院は退職したけれど治療費のことが気がかりでした。
辞める時に不妊治療していることを知り合いの先生に話していたので、その先生のもとでパートとして働かせてもらえることになりました。

通院のために急な休みでも臨機応変に対応してくださる器の広い先生のお陰もあって、
パートしながら不妊治療を継続できたのは心の安心にも繋がりました。
先生には精神的にも安心させてもらい、当時のことは今でもずっと感謝しています。

パートしながらも治療を優先することができるようになっていったものの、なかなか妊娠することはなく、薬の副作用もあってだんだん心と体がしんどくなっていくのを感じていきました。
つらいけど薬をやめたら妊娠できないと思い込んでいたので、ホルモン治療をやめる選択肢はありませんでした。

夫は優しい言葉をかけて寄り添って支えてくれるけど、薬を飲み続け、自己注射をしながら、内診されるのも毎回苦痛で色んな検査を一通りやってきましたが、毎回吐きそうになりながら身体の痛みに耐えながら通院していたので、普通に生活ができている夫に対して感情的になって怒りをぶつけたりもしました。

このつらさは経験していない人には誰にも分からない。夫より私ばかりがつらいと内心感じていたし実際にそうでした。心も体も痛みと苦痛ばかりでしんどいけれど、誰にも相談などできないと思っていたので出口の見えない暗いトンネルの中にいるようで、不安と隣り合わせの孤独感の中に長い間ずっといました。

不妊治療クリニックの看護師さんがやっている30分無料のカウンセリングを受けてみたりもしましたが、
家族構成や仕事のことなど表面的な雑談をしてあっという間に時間がきて終わってしまいました。無料の30分カウンセリングで何が解決できるのか期待もしていなかったし、そもそもカウンセリングがどういうものなのか知らずにいたので、当時はちゃんと受けようとも調べることもなく、カウンセリングを受けるという意識になりませんでした。

あの時、助けて!と言っている自分の心の声をちゃんと聴いて、自分と向き合えるような濃密な時間を作って、個別対応のしっかりとしたカウンセリングを受けていたら、もっと早く心と体が楽になっていたんだろうと思います。

1回3万円はする注射を何回も打ち、体にムチを打って頑張らせているような状態でした。
だんだん思考も麻痺して笑顔が無くなりうつ状態になっていきました。

そして長く服用しているホルモン剤の影響で子宮筋腫が大きくなって変性してしまい、このままだと妊娠に悪影響があるとのことで先に手術をすることになりました。
9日間の入院をしてから3か月は妊活をお休みすることになりました。

その頃はもう外に出るのが嫌でなるべく家の中に引きこもっていました。外に出れば道行く妊婦さんや赤ちゃん連れのお母さんを見るのがつらいし、どうしても目に入ってきてしまう。
道行く人達はみんなキラキラとしていてとても幸せそうに見えました。

ベランダに干されている子供服を見たり、カバンに付いてるマタニティーマークを見るだけでも涙がでてくる状態だったので毎日生きてることが本当につらかったです。

お休み期間にもどこか良さそうな病院はないかと調べていたので、思い切って別の不妊治療病院へ転院することに決めました。
薬をやめていたのもあって体の調子が良くなったのが検査の数値にも表れていました。

そこでは薬を使わないで様子を見てみましょうと言ってもらえたので、転院後すぐに妊娠することができて夫とともに泣きながら喜びました。そのまま妊娠を継続することができて、
37歳の時に念願の第一子を無事出産することができました。

赤ちゃんはもう可愛くて可愛くて、寝顔を見ながら毎日生まれてきてくれた命の奇跡に感謝をしていました。すやすや寝ている時も息をちゃんとしているのか気が気じゃなかったし、小さくて柔らくて何をするにも可愛くて、初めての赤ちゃんとの生活は寝不足になりながら大変でも、不妊治療をしていた頃の大変さに比べたらなんてことはないと思っていましたし、目の前にいるこの小さな赤ちゃん、大切な命を私の全身全霊すべてを出し切って、自分の命と引き換えでも守る!って心に誓いました。

第二子への挑戦と人生の転機

母乳育児と眠れない日々で体はクタクタだったけど、赤ちゃんは最高に可愛くて心はとても癒されていましたので、赤ちゃんのパワーが凄すぎてすぐに2人目が欲しくなりました。

長女が生まれてから生後10か月の時に、私の持病のwpw症候群の心臓の手術治療のために
カテーテルアブレーション治療をしました。
体の中にカテーテルを入れている時間は6時間半にも及び、自分の意思とは関係なく鼓動を早くしたり遅くしたりと心臓に電気を流しながら間違えて電気が送られてしまう部分を焼いていきました。
その感覚が言葉では言い表せないほどつらく、孤独の中でこの治療がいつまで続くのか分からなくて、
自分の体がどうなってしまうのか分からなくて怖くて生きた心地はしなかったです。

母乳に影響を出さないためにも全身麻酔をやめて局所麻酔にしていたので、意識はしっかりしていました。カテーテルが体の中に入ってる気持ち悪い感覚と格闘しながら無事に終わる事を祈りながら終わるまでの6時間半ずっと耐えていました。

家族もずっと心配しながら付き添ってくれていましたし、先生や看護師さん達に支えてもらって何とか無事に終わり完治することができたので、いよいよ2人目の妊活を再開することができました。

娘が1歳の時に断乳を決意し、また懲りずに不妊治療病院へ通おうと思い39歳の時に子供を連れて通えるクリニックへ転院し、最初から体外受精に挑戦するため再度ホルモン治療の薬漬けの日々を開始しましたが、またもやなかなか授からなくてつらい想いを抱えていきました。

その後も2年間授からないでずっとつらい状況でした。体外受精をしたからってすぐに妊娠できるはずもなく2年間で8回挑戦してきたけれど、すべて撃沈しました。

40歳手前になり心も体も経済的にも負担が大きくなって、ボロボロになりながら自分の体力と治療の限界を感じます。

もう薬に頼るのをやめたい!心と体がつらい!って心と体が悲鳴をあげているのに、
ずっと自分の気持ちを無視してきていました。
それでも2人目をあきらめることができずにいてずっと病院探しがやめられませんでした。

不妊治療をやめようかどうか迷っている時に、最後の砦と言われている有名な先生が新しく開院することを知ったので、そのタイミングで思い切って転院することにしました。
もう本当にこれでクリニックに通うのは最後にしようと、41歳の時に薬をなるべく使わない自然派クリニックへ転院することにしました。

不妊治療ブログの中でもかなり厳しいと言われる先生で有名なので、覚悟を決めて緊張しながらクリニックへ向かいます。
今までの膨大な不妊治療履歴をまとめた書類を持参しました。

ブログの中で有名な先生と初対面し、先生は書類に目を通し一通り見終わったあとしばらく沈黙してから、
先生は「あなたに薬は必要ないでしょう。漢方や鍼灸はやってもいいけど、サプリもやめてね。
プラセンタ注射なんて訳の分からないものを自分の大事な体に入れないで。ホルモンバランスがおかしくなるからやめてね。そして不妊の原因は女性だけでなく男性女性半々です。
そして、大事なのは毎日の規則正しい生活習慣ですからね」とやさしく言ってくれました。

今までずっと、薬を増やして治療を続けるか、治療をやめて子供をあきらめるかの2択だったので、
そんなことを言ってくれる先生に出会ったことは初めてだったので私は心底驚きました。

そのあと、看護師さんからも食事と適度な運動の見直しをして下さいとアドバイスをもらい、改めて自分の食事内容や運動のことなどを振り返って考えました。
ろくに運動もしない・夜更かしや甘いもの・お酒も大好きだったことを反省し、生活習慣を改め直しました。

この時、生活習慣を見直しながら半年間休養して心と体を整える準備期間を取ったことが
とても大きかったです。

食事や運動、自分の内面と向き合ったことで生活は変わっていきました。時には感情的になって夫につらい気持ちをぶつけたりもしましたが、夫はいつも優しく寄り添って支えてくれていました。

体に良かれと思っていたサプリや薬も使わなくなり、経済的な負担も減って、心と体が楽になっていたことで、笑顔が増えていって色んなことすべてに感謝できるようになっていきました。
「妊活は趣味なんだから楽しみながらやっていこう!妊娠できなくてもいいしできたらラッキー
くらい気楽にやっていこうよ」という夫からの優しい言葉にも救われて、暗いトンネルからやっと抜け出したみたいに感じられて、目の前がパーッと明るくなって私の気持ちにも新たな変化が起きているのを実感していました。

生活習慣を改めて気持ちも切り替えられたことが大きくて、転院後2回目の治療で奇跡的に妊娠することができて、無事にクリニックを卒業することができました。

2人目不妊期間も合わせると、トータルして約10年間で4回の転院と8回以上の体外受精、不妊期間に使用してきた飲み薬や注射、治療、サプリや漢方、鍼灸合わせると覚えてる範囲で総額にして650万以上はかかりました。薬づけでうつ状態のつらかった日々を乗り越えて、42歳で念願が叶い奇跡の2人目の赤ちゃんを母子ともに健康で出産しました。

2人目が生まれて3か月の時、長い長い闘病の末に家族みんなに看取られて義母が他界しました。
私が高校生の時からお世話になり、結婚してからも私のことを本当の娘のようにかわいがってくれて、私も本当の母のように想っていたので亡くなる前の一週間は病院に家族総出で泊まり込み、亡くなる時までずっと家族と一緒に居られました。

もうすぐで永遠のお別れがくる、もう二度と話すことができなくなるという覚悟はしていたので、最期にお義母さんに感謝の気持ちを伝えることができて、お義母さんに伝わって返事を返してくれたのがとても嬉しかったのできちんと最後のお別れができて本当に良かったと思っています。

母を失った夫の悲しみは私には計り知れませんが、亡くなるまでの過程で心の準備ができたことは家族にとって救われました。お義母さんにはたくさん支えてもらいました。本当に感謝しています。

悲しみの中でも毎日の子育て・家事・仕事と目まぐるしく忙しい毎日を送っていきました。
ある日の夜中に背中から右胸の辺りの激痛に襲われて浅い呼吸しかできなくなってしまい、夜間の救急病院に行ったこともありました。血液検査で異常はなく、点滴を打って1時間ほど横になれて症状は落ち着いていきました。診断は肋間神経痛ということで原因は自律神経の乱れからくるものでした。

夫婦関係の悪化と離婚を意識してしまう毎日でつらい

忙しい毎日の中で、お互いの認識の違いから些細なことでケンカすることが増えていきました。
だんだん夫婦の会話が減っていき、顔を見るとイライラしてしまうようにもなりお互いに顔も見たくないほど夫婦関係が悪化していきました。

仕事が忙しい夫に頼ることもできないので一人で子育てをしている感覚になっていました。
夫に対する不信感や将来の不安が出てくるようになって眠れない日々が続きました。

10年間のつらかった妊活時代を乗り越えて、やっと生まれてきてくれた我が子達は可愛いものの、仕事の忙しさを理由にされて、日々の生活の困りごとにも頼ることができなくて、なんとか自力で解決してきました。
夫との会話のない生活にも不満が続いてしまい、心から話せる友人もいなくて孤独感から漠然とした寂しい思いを抱えていました。

子供達の前でもお互いにののしり合って大ケンカする私達を見て、子供達も泣き出してしまうようになってしまい、そんな子供達の姿を見て反省するとともに、このままでは本気で離婚に向かってしまう!何とかしなければまずい!と思いました。

私には両親が離婚してつらかった子供時代の記憶があるので、夫に愛情が残っている限り離婚は絶対にしないと思っていますが、一緒に生活していく上で夫とは正反対の価値観だし考え方が違う。私は目に見えない部分でも最大限の努力をしているのに大変だったことの共感をしてもらえない。

夫から離婚しようと何回か言われたこともあるので、私の努力や気持ちが尊重されずお互いに寄り添う事ができなくなったら、その時にはいつでも離婚しようという身軽さでいたいなと思いますが、現時点ではなるべくなら離婚はしないでおきたいなと思っております。(笑)

話し合ってもずっと平行線でいる状態なので、私の見方を変える努力を始めようと思い、どうすればいいのか考えました。

夫婦関係やパートナーシップにおいて注意する点や男性脳・女性脳について本を読んで学んだり、自己理解を深めるための講座を受けたり、自己啓発の講座にも積極的に参加して取り組みました。
ついつい夫に対して厳しい口調になっていたことを反省し、自分の言動にも特に注意していきながら会話をすることに努めました。

外では感情的になって怒ることはありませんが、母や夫、子供と話していると自分でも制御不能な感情が出てきてしまう時があるので、その怒りの感情と向き合い続けることで自己理解に苦しみましたが、
冷静に自分を見つめて考え直し、私の言い方がきつい、余計な一言を言ってしまうなど自覚する部分があったので反省せざるを得ない状況になり、傷つけてしまったことに謝罪しました。
そうすると、夫や子供からも反省の言葉が返ってくるようになりました。

そこからは、やって当たり前になっていた思考を改めて、夫に向けて私から感謝の気持ちを伝える努力を始めました。

つねに「ありがとう」を意識して、笑顔で感謝の気持ちを言葉や態度に示していく。
自分のリラックスを優先していくこと。そうやってまず自分から笑顔になって、自分が変わることで夫婦関係が良くなることを実感し、
子供達も安心して笑顔が増えていく良いサイクルになることに気が付きました。

自己啓発の本や心理に関係するさまざまな本をたくさん読み、講座を受けたり、男性脳・女性脳など脳科学や量子力学からの視点、カードリーディングや占星術などから統計学で宿命を知り、自己理解の重要性に気づいてから新たな視点で自分の内面と向き合い続けて、やっと自分の使命にたどり着くことができました。

環境の変化と新たなる挑戦

コロナ禍をきっかけにのびのびとした子育て環境を求めて、便利だけど息が詰まるような都会生活に終止符を打って、生活するすべての環境を変えて整えるために夫と私44歳の時、長女8歳、次女3歳を連れて家族で自然の多い環境を求めて神奈川県茅ケ崎市への移住を決意します。

何より転校をさせる長女のことが気がかりだったので、かなり神経を使い心配しましたが、長女は転校初日からお友達ができた―と嬉しそうに学校から出てきたのでほっと一安心しました。
先生や優しいお友達に囲まれて、お陰様で転校してから4年経った現在も毎日元気に登校しています。

仕事面では、歯科衛生士として常勤、非常勤、フリーランスとして18年間、
歯科助手時代から合わせると歯科業界には28年間ずっと携わりながら働いてきました。
コロナがきっかけで私は在宅でできる仕事がしたくて探していましたが、これなら自分でもできそうかなと見つけた仕事が高級ブランドを扱う海外輸入物販ビジネスでした。

歯科衛生士として患者さんと対話しながらの仕事も好きですが、
働き方を変えたくて、最初は物販ビジネスを副業として始めましたが、予想以上に苦手分野のやることが多いことに気が付き、仕事として収益化できても一日中パソコンにかじりついている状況でどんどん疲弊していきました。
私の求めている働き方にはならなかったので、夫に事情を話して思い切って物販ビジネスをやめました。

そして、これからは、
もっと人と直接的に深く関わりながらお客様の笑顔をどんどん引き出していきたい!
もっと人に喜んでもらえるような仕事がしたい!
悩める人の心が楽になれるようなサポートをしたい!
私の失敗成功体験をお伝えしながら丁寧に寄り添うサポートがしたい!
お客様が満足するもっと質の高いサービスを作る!
そのためには自分をもっと高める必要がある!
という熱い想いが込みあがってきました。

「自分の気持ちに素直に正直に生きること」と「ピンチはチャンス」「自分の心を制する者が他人の心も制する」が私のモットーでもあるので、
自分が本当にやりたかったことを形にしたいと思い、また更に学びながら思い切って起業する決意をしました。

私自身が10年間も悩み苦しみながら乗り越えた妊活に焦点を当てて、妊活に悩む女性の心に寄り添うサポートをしようと思い立ち、
2022年「すまいる妊活」を立ち上げました。

オンラインで完結できるようにブログを発信し続けて、国内海外問わず私の発信する内容に興味を持ってくださる方、共感してくださる方が多数公式LINEに登録してくれました。
実際に個別でのオンライン相談に何人も来てくれて嬉しく思いました。

準備期間も合わせて、事業を立ち上げてから3年間活動してきましたが、友人、知人含む数多くの方達の妊活お悩み相談を受ける中で、
夫婦関係やパートナーシップ、親子関係や職場の人間関係に悩む方が多いことに気がつきます。

私自身もそうでしたが妊娠することに囚われてしまって、「妊娠できないと不幸」みたいな気持ちでいるネガティブな妊活をされてしまう方が多く、そうなっていくとうまくいくこともいかなくなりこじれていってしまうので、その原因はなんなのか?どこからきてるものなのか?

相談に乗りながら悩み抜き、行き着いた先は自己理解でした。
やはりメンタルな部分が重要部分を占めていると分かり心理について学び始めました。
本や講座でも学びながら、
「自分を知ること」が何より大切なことを分かりやすくお伝えしていきたいと思っています。

私は小さいころからずっと長い間、考え方が「他人軸」だったので、自分で決断するよりも人にあわせることに重点を置きすぎてしまって、自分で考えるということをあきらめてしまっていました。
考えても仕方ないことや答えのでないことにずっと悩み続けてきたり後悔してきたので、そうなってしまう原因がやっと分かり、自分の悩んでしまうクセや怒りポイントを理解できるようになりました。私と同じような思考クセのある方に、根本的なもの・もっと向き合うべき課題がある事を具体的に分かりやすく誰にでも理解できるようにお伝えしたいと思いました。

自己理解や心理面の教育の重要性を改めて感じ、目にみえないもの(非認知)を言語化することや心の仕組みをより具体的にして言葉で伝えること、どんな方にも分かりやすく理解できる方法で表現しながら、目に見える形でお伝えできるようになりました。

誰にでも簡単にできる方法で自分自身が変化しているのを体感できているので、
心が安定し穏やかで豊かな生活を送れるように自然と変化しました。
意識せずとも自然と笑顔が増えていくので、周りにいる人も笑顔になっていって笑顔の連鎖ができるのを実感できるようになります。

これからも私が経験してきた多くの失敗例や成功例をお伝えし、私と同じように悩める人のヒントとなって、必要ならば簡単にさくさく行動できるように具体的なアドバイスもお伝えしていきながら、自己肯定感が上がるように一緒に寄り添っていくサポートをしていきます。

心理カウンセラーとして新たな目標を見つける


一生懸命に輝く未来を夢見てはいるものの、
なかなか行動できなくて、現実が変わらなくて一人ではどうしようもないと途方に暮れている方、
ぐるぐると一人で悩みながら毎日がつらいと感じている方、

同時に苛まれる消えない孤独感や漠然とした不安、自己否定感、ネガティブな苦しい感情を否定することなく自分を丸ごと受け止めて、他人との距離感・仕事や子育て、生活全般のバランスをみて、自分とうまく付き合っていけるそれぞれの方法をオーダーメイドで考えながら、お一人お一人とじっくりと向き合うために個別にしっかりお時間を取ってお伝えしています。

今までの活動経験を活かしながら、苦しく感じてしまう見えない潜在意識の部分もお伝えしていきながら、1人でも多くの方々に私の提供するサービスが行き渡るように、カウンセリングを通して人生を豊かに変えるお手伝いをしていきます。

2025年現在は心理カウンセラーとして本格的に活動し、夫婦関係や親子関係、職場などの人間関係の悩みを持つ方が、自分軸で自分らしく生きられるようになるための幸せ空間作りのためのカウンセリングの提供と、自分らしく生きるための人生を自ら選択して自発的に行動ができるようにするための具体的なフィードバックやアドバイス、コーチングなども併せて提供させて頂いております。

周りの人を笑顔にすることを使命に
セルフメンタルケアの重要性をお伝えしながら、人間関係で疲れていた人が無理をしないようになれて、自分軸で行動できるようになれるサポーターでもあり心理カウンセラーとしても活動し続けていきます。


心穏やかに豊かな安定した生活を送れるよう、お一人ずつ丁寧にあなたの心に寄り添うサポートをさせて頂きますのでご安心くださいね。

長い長い私のプロフィールをここまで読んで下さって本当にありがとうございました。

こんな私ですが、宜しければどうぞお気軽に相談してください。
よろしくお願いいたします^^