プロフィール

祖母の死と両親の離婚・環境の変化で寂しくて不安だった子供時代

1976年愛知県に生まれるも、父親の転勤で生後3か月ほどですぐに都内へ引っ越しました。
祖母、父、母、姉二人の6人家族で6畳二間のアパート暮らしでしたが、
6歳で祖母が亡くなり、7歳で両親が離婚しました。
それからは母・姉2人・猫1匹と私の4人で暮らしていました。
優しかった祖母の死に直面し、人は死ぬんだということを目の当たりにして悲しく寂しい気持ちでした。
そして酒乱の父親の度重なる暴挙におびえた生活を送っていて、家の中は安心できる空間ではなく、いつも漠然とした不安感で生活していました。

母はいつでも逃げ出せるようにいつも荷物をまとめていたし、父親がお酒を飲み始めて暴れだすと「家を出よう!」と言って私達姉妹の手を引いて急いで家を飛び出し、外で時間をつぶしてから様子を見に帰るというのを繰り返していました。
ひどい時は家中の物が散乱していて家具が倒れていたりとすごい惨状でした。

両親が離婚してから父親がいないことを同級生の男子にからかわれたのも傷つきました。
父親がいない母子家庭で暮らしていく生活に幼いながらも不安を感じていました。

小学校卒業の時に住んでいたアパートを取り壊すために退去することとなり、
中学入学と同時に品川区から港区にあるアパートに引っ越しました。
仲良しの友達との別れがつらくて孤独感と不安でいっぱいでした。

それでも徐々にクラスの中で新しい友達もできて学校に慣れていきました。
周りはお金持ちの家庭が多くて塾や習い事に通っている人が多く、親が社長でビルを所有している、お店を経営しているなど家庭環境の違いを肌で感じていたので、うちは母子家庭で貧乏なんだと思って生活していました。裕福そうな家庭環境が羨ましくもあったのと、私は周りのお友達とは違うとずっと自己否定感や不安を感じてきました。

高校生活は中学校の時とはまた環境がガラリと変わりました。
勉強の内容は難しくなるのに先生たちは淡々と授業を進めていくので授業についていけず
勉強に対する興味がなくなり、成績がどんどん下がっていきました。

高校3年の進路相談のときに現実を突きつけられて、自分が将来何をしたいのか?
やりたいことが見つからず、自分に何が向いてるのかもよく分からずで
漠然と将来がずっと不安でいました。
先生や母親の勧めで特に興味もなかった事務職に就職する方を選択しました。

就職するも環境になじめずすぐに退職する

安定の事務職に就職したはずでしたが、同期達と離れてしまい私だけ別の部署に配属されてしまい新人は私だけでした。意地悪な先輩が居て立場の弱い私が標的にされました。あいさつしてもなぜか返事をしてくれない、あからさまに私だけお土産をくれなかったり、分からないことを質問しても無視されたりするので、その人を見るだけですごく嫌な気持ちになっていきました。

仕事に対するモチベーションも下がり、話せる同僚も近くにいないのでお昼休みも一人で孤独でした。当時は事務作業もつまらなく感じていたので、職場の雰囲気にまったくなじむことが出来ず
仕事をしている意味が分からなくなり6ヵ月で退職しました。

飲食店やコンビニなどフリーターとして仕事をいくつも掛け持ちしながら働いていましたが、
ちゃんと正社員として就職しないといけないという思い込みがあり、歯科医院で歯科助手の正社員として働き始めました。

3年間は働いて安定していたにも関わらず、本当にこのまま歯科助手として歯医者さんで一生働き続けたいのか?
自問自答を繰り返していました。
歯科衛生士と変わらない仕事内容なのに、資格がないことでお給料が低いのが不満でした。
やはり国家資格を取りに行こう!と思い立ち夜間部のある歯科衛生士専門学校に通う事を決意し、昼は歯科助手として働きながら、夕方からは学生として専門学校に3年間通いました。

30歳で念願の国家資格を取得して学校を無事卒業し、
高校時代からの縁で付き合っていた人と結婚して、研修先だった大学歯科病院へ就職もしました。


大学病院の業務内容は想像以上にハードでとても忙しく業務に追われる毎日でした。
馬車馬のように働いて、へとへとになりながらやっと業務が終わったあとでも、すぐに帰宅することはできず勉強会参加が必須でした。

みんな頑張っているのに私だけ休むわけにいかないと、無理をしながら仕事をしていました。
結婚生活は楽しく過ごしていましたが、大学病院で仕事をするために毎日生きているようなそんな感覚でした。

普通の歯医者さんでは手に負えない患者さんや心が病んでる患者さんなど、大学病院にはそのような方達が多数来院するので、病院の待合室は常に人であふれかえっていました。
患者さんからの理不尽な対応に追われたり、厳しい歯科医師や先輩歯科衛生士も多く、スムーズにいかないことにイライラされながら、怒られながら凹む毎日を過ごしていて本当にストレスの多い環境でした。

周りではうつ状態で休職する人や辞めていく人もたくさんいましたし、中には自殺未遂した人もいたり、私もギリギリの精神状態でなんとか耐えながら働いていました。

思っていることに蓋をして、上司の言う事を聞いて周りに合わせないと怒られました。学生達や後輩達に厳しく接しないと怒られるので、怒りたくもないのに学生達や後輩達に厳しく接したり、実践する場もないのに勉強会にも強制参加だったり、眠くなるような会議に出たりしていました。

これが本当に私がやりたいことなのか?
お給料や福利厚生は良かったので、お金のためにやりたくもない仕事をして生きる人生でいいのか?
自分の生き方にも疑問で漠然とずっと将来が不安なままでした。

みんなも頑張っているし頑張らないとダメなんだ!と謎の気合を自分に入れたりしながら、
やめる決意がなかなかできないでいて、お金を稼ぐためにもなんとか踏みとどまっていました。

仕事と不妊治療、薬づけの日々でうつ状態だった30代

30歳で結婚と就職を同時にスタートしてからは、仕事を覚えることや大学病院での人間関係で疲れていたので、子供が欲しいという気持ちにはなかなかなれず、そのうち妊活すればすぐに妊娠できるだろうぐらい簡単に考えていました。

でも妊活を意識しだしてから2年間なかなか妊娠することがなかったので、だんだん自分の体に何か問題があるんじゃないかと不安にかられて、夫とも相談し不妊治療病院に行く決意をしました。

夫婦ともに検査をしても特に異常はなかったので、体の状態を見ながら治療をはじめていきました。通院して3ヵ月くらいしてからすぐに妊娠することができましたが、残念ながら7週目で自然流産することになってしまいました。

飛び上がって喜んだのも束の間でとても悲しかったですが、妊娠できる体なんだと自分の体にひとまずは安心しました。子宮を休ませるためにも3か月は休養しながら妊活はお休みしました。

妊活を再開してからしばらくはタイミングを見ながらでしたが、なかなか妊娠できなかったので、本格的に治療を始めることになり、ホルモン注射接種や飲み薬を定期的に飲むようになり薬漬けの生活が始まりました。

治療費を稼ぐためにも歯を食いしばりながら大学病院で働いていましたが、ある時上司に言われた心無い軽い一言にものすごいショックを受け、
張り詰めていた糸がプツンと切れたかのように頑張る気力を失いました。
もともと信頼関係などなかったその上司のお陰で、
思い切って不妊治療を優先するために退職を決意できた瞬間でもありました。

そして知り合いの先生のもとでパートしながら治療を優先することができるようになりましたが、なかなか妊娠することはなく、薬の副作用もあってだんだん心と体がしんどくなっていくのを感じていきました。
つらいけど薬をやめたら妊娠できないと思い込んでいたので、ホルモン治療をやめる選択肢はありませんでした。

夫は優しい言葉をかけて寄り添って支えてくれるけど、薬を飲み続け自己注射をしながら、内診されるのも毎回苦痛で色んな検査を一通りやってきましたが、毎回吐きそうになりながら身体の痛みに耐えながら通院していたので、普通に生活ができている夫に対して感情的になって怒りをぶつけたりすることもありました。

このつらさは経験していない人には誰にも分からない。夫より私ばかりつらい思いをしていると感じていたし実際にそうでした。心も体も痛みと苦痛ばかりでしんどいけれど、誰にも相談などできないと思っていたので、出口の見えない暗いトンネルの中にいるような感覚でいて、不安と隣り合わせの孤独感の中に長い間ずっといました。

不妊治療クリニックの看護師さんがやっている30分無料のカウンセリングを受けてみたりもしましたが、
家族構成や仕事のことなど表面的な雑談をしてあっという間に時間がきて終わってしまいました。無料の30分カウンセリングで何が変わるのか期待もしていなかったし、当時はちゃんと受けようと調べることもなくカウンセリングを受けるという意識にはなりませんでした。

あの時、助けて!と言っている自分の心の声をちゃんと聴いて、自分と向き合えるような濃密な時間を作って、個別対応のしっかりとしたカウンセリングを受けていたら、もっと早く心と体が楽になっていたんだろうと思います。

1回3万円はする注射を何回も打ち、体にムチを打って頑張らせているような状態でした。
だんだん思考も麻痺して笑顔が無くなっていき、うつ状態になっていきました。

そして長く服用しているホルモン剤の影響で子宮筋腫が大きくなってしまい、先に手術をすることになり9日間の入院をしてから3か月は妊活をお休みすることになりました。

その頃はもう外に出るのが嫌でなるべく家の中に引きこもっていました。
外に出れば道行く妊婦さんや赤ちゃん連れのお母さんを見るのがつらいし、どうしても目に入ってきてしまう。
道行く人達はみんなキラキラとしていてとても幸せそうに見えました。

ベランダに干されている子供服を見たり、カバンに付いてるマタニティーマークを見るだけでも涙がでてくる状態だったので毎日生きてることが本当につらかったです。

お休み期間に今までのクリニックへはもう戻りたくないなと思っていたので、思い切って転院することを決意しました。
薬をやめていたのもあって体の調子が良くなったのが最初の検査の数値にも表れていました。

そこでは薬を使わないで様子を見てみましょうと言ってもらえたので、転院後すぐに妊娠することができて驚きました。夫とともに泣きながら喜びました。そのまま妊娠を継続することができて、
37歳の時に念願の第一子を無事出産することができたので、薬を使わないことで心と体が楽になり、痛みなどのストレスがなかったことが大きくて思い切って転院して良かったと思いました。

第二子への挑戦と人生の転機

母乳育児と眠れない日々で体はクタクタだったけど、赤ちゃんは最高に可愛くて心はとても癒されていたので、赤ちゃんのパワーが凄くてすぐに2人目が欲しくなりました。

娘が1歳の時に断乳を決意し、また懲りずに不妊治療病院へ通おうと思い39歳の時に子供を連れて通えるクリニックへ転院し、最初から体外受精に挑戦するため再度ホルモン治療の薬漬けの日々を開始しましたが、またもやなかなか授からなくてつらい想いを抱えていきました。

体外受精をしたからってすぐに妊娠できる保証はなく2年間で8回挑戦してきたけれどすべて撃沈しました。

40歳手前になり心も体も経済的にも負担が大きくなって、ボロボロになりながら自分の体力と治療の限界を感じていました。

もう薬に頼るのをやめたい!心と体がつらい!って心と体が悲鳴をあげているのに、
ずっと自分の気持ちを無視してきていました。
それでも2人目をあきらめることができず、ずっと病院探しがやめられませんでした。

不妊治療をやめようかどうか迷っている時に、最後の砦と言われている有名な先生が新しく開院することを知ったので、これで最後にしようとそのタイミングで思い切って転院することにしました。
この時、生活習慣を見直しながら半年間休養して心と体を整える準備期間を取ったことが
とても大きかった
です。

食事や運動、自分の内面と向き合ったことで生活は変わっていきました。時には感情的になって夫につらい気持ちをぶつけたりもしましたが、夫はいつも優しく寄り添って支えてくれていました。

生活習慣を改めて気持ちも切り替えられたことが大きくて、転院後2回目の治療で奇跡的に妊娠することができて、無事に第二子を出産することができました。

忙しい毎日で夫婦関係が悪化していく

念願の2人目が生まれてから1年後には仕事にも復帰して、毎日の家事育児とで目まぐるしく時間が過ぎていきました。子育てや家事においての夫婦間の認識の違いから些細なことでケンカすることが増えていき色んなストレスを抱えていきました。

だんだん夫婦の会話が減っていき顔を見るとイライラしてしまうようにもなり、気づくとお互いに顔も見たくないほど夫婦関係が悪化していました。

仕事が忙しいという夫に頼ることもできないので、私は一人で子育てをしている感覚になっていきました。
夫に対する不信感や将来の不安が出てくるようになって眠れない日々が続きました。

2人目不妊も合わせると約10年間のつらかった妊活時代を乗り越えて、やっと生まれてきてくれた我が子達は可愛いものの、仕事が忙しいを理由にされて休日はのんびりしている夫を見ていると、どうしてもイライラしてきてしまい、今度は夫婦関係のことで悩むようになり「離婚」の文字がちらつくようになっていきました。

私には両親が離婚して寂しかった幼少期の記憶があるのと、辛かった妊活時代を精神的にも夫に支えてもらいながら一緒に乗りこえてきた経験があるので、そのことを思うと夫への感謝の気持ちは忘れられないなとまだ離婚は踏みとどまりますが、10年後もずっと一緒にいたいと思えるように、これからもお互いに努力していかないといけないとも感じました。

ケンカが絶えなくなり、大声でののしり合う私達を見て泣き出してしまう子供達を見て、このままではまずいと感じ、自分の態度を反省するとともに夫婦関係を改善していきたいと考え直しました。
夫婦関係やパートナーシップについて、自己啓発や心理に関係するもの、男性脳・女性脳などの脳科学からの視点についての本を読んでみたり、自己啓発の講座や心理カウンセリング講座など様々な講座にも積極的に参加していきながら夫婦関係を改善する取り組みをした結果、徐々にまた夫婦関係がよくなっていきました。

環境の変化と起業決意


2021年コロナをきっかけに生活環境を整えるため、便利だけど息が詰まるような都会生活に終止符を打って、のびのびとした子育て環境を求めて神奈川県茅ケ崎市への移住を決意します。
通勤があるので都心から1時間ほどの場所で、大好きな海や山が近くなり環境をがらりと変えてから子供達ものびのびと元気で活発に育ってくれています。

仕事面では、歯科衛生士として常勤、非常勤、フリーランスとして18年間、
歯科助手時代から合わせると歯科業界には28年間ずっと携わりながら働いてきました。
患者さんのお口の悩みはもちろん、全身の健康や病気についての悩みを聴いたりしながら対面で仕事をしてきました。

コロナがきっかけで在宅でも仕事ができるようになりたいと思い、オンラインで完結できる起業講座に参加して学びながら私に何ができるのか模索してきました。
私自身が10年間も悩み苦しみながら乗り越えて出産できた妊活に焦点を当てて、妊活に悩む女性の心に寄り添うサポートをしようと思い立ち、2022年「すまいる妊活」を立ち上げました。

妊活に悩む女性のお悩みを聞いていると、
人間関係での悩みでストレスを抱えている場合が多く、その多くは過剰な思い込みや自己否定、不安感からくるものだったり、安心できない状況でいることでメンタル面のバランスが悪くなり体にも悪い影響を及ぼしていることに気が付きました。

妊活よりも先に伝えたいことがあると感じた私は、妊活で悩む方を対象にするのではなく、もっと根底にある部分でお悩みのある方に焦点を当てることにしました。

まずは「自分を知ること」が何より大切なことであることを感じていたので、
目には見えない心の仕組みやバランスを具体的に分かりやすい言葉で伝えられるように、心理カウンセリングについて学びたいと思い講座を受けることを決意し実践しながら習得していきました。

心理カウンセラーとして新たな目標を見つける


2025年現在、今までの活動経験も併せて心理カウンセラーとして本格的に活動しています。
苦しく感じてしまう原因や見えない潜在意識の部分もお伝えしていきながら、誰にでも簡単にできて無理なく自然と変化できる方法をカウンセリングを通してお伝えしています。

自己啓発の本や講座での学び、心理カウンセリングを通して内面を見つめて分かったことは、
私自身がずっと自分に自信が持てず、自己肯定感が低くて、他人の言う事に合わせてしまう他人軸で考える心のクセがあるということでした。将来への漠然とした不安感が消えず、自己否定をしながら孤独感を感じ一人でもがき苦しかったことに気づくことができました。

その根底にある自分の考え方のクセを知って、様々なワークを通して体感していきながら私自身の心が安定し穏やかに楽になりました。心のバランスを自分で整えていくことができるようになれてからはやっと自分らしく生きやすくなり、周りに感謝の気持ちが生まれ毎日が幸せだなと感じられようになりました。

なかなか行動できなくて現実が変わらないと悩む方や、一人ではどうしようもないと途方に暮れている方、ぐるぐると悩みながら毎日がつらいと感じている方などに向けて、自身とじっくりと向き合うために個別にしっかりヒヤリングさせて頂くための時間をお取りしております。

夫婦関係や親子関係、職場などの人間関係の悩みを持つ方が、自分軸で自立し自分らしく生きられるようになるためのサポートや、幸せ空間作りのためのカウンセリングの提供と、自発的に行動ができるようにするための具体的なフィードバックやアドバイス、コーチングなどもご希望の方には併せて提供させて頂いております。

心穏やかに豊かで安定した生活を送れるよう、お一人ずつ丁寧にあなたの心に寄り添うサポートをさせて頂きますのでご安心くださいね。

長い長い私のプロフィールをここまで読んで下さって本当にありがとうございました。

こんな私ですが、宜しければどうぞお気軽に相談してください。
きっとあなたのお役に立てることができると自負しています。よろしくお願いいたします^^